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ユリイカ2010年8月号

ユリイカ2010年8月号 特集=電子書籍を読む! ユリイカ2010年8月号 特集=電子書籍を読む!
京極 夏彦 佐々木 俊尚 堀江 貴文 桜坂 洋 前田 塁 by G-Tools青土社 2010-07-26
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2010年8月号の『ユリイカ』は、「電子書籍を読む!」という特集が組まれており、作家や研究者などによる様々な論考が収録されていました。
     
興味深いものが多かったのですが、中でも「電子書籍」の台頭によって、「読む」という行為がどのように変質するのか、という論点には考えさせられるものがありました。
     
また、「知」というものが、どういったメディアを通して人々に共有され、それがどのような権力構造を形成してきたかを分析した師茂樹氏による<「公共の記憶」としての電子書籍>や、「一日に一ページしか読めない本」や「ほかの誰かがその本を読んでいるときには読むことができないように制御された、一冊しかない本」といった楽しいアイデアが散りばめられた山田亮太氏による<書物は存在可能か 電子書籍でつくってみたい50の本>といった寄稿も非常に示唆に満ちています。
     
グーテンベルク革命以降において私たちの「知」を支えてきた枠組みが、「電子技術」によって確かに揺らごうとしています。しかしそういった大きな変化に恐れをなすのではなく、知性をもって果敢に適応していこうとするポジティブな姿勢を、今回の『ユリイカ』8月号から読み取ることができたような気がします。

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守るべき日本文化って何?

『Voice』にて、慶応義塾大学教授の岸博幸氏が<電子書籍が日本文化を破壊する日>という記事を書いています(2010年5月31日)。

同様の趣旨のことを、2010年7月3日号の『週刊東洋経済』においても池田信夫氏との対談で述べられています。

両メディアで共通する岸氏の認識を簡単に抜粋/要約すれば、

無料でコンテンツを提供し広告収入で対価を得るというインターネット上のビジネスモデルが広く普及したことで、コンテンツ企業やマスメディアの収益が悪化し、世界中で文化やジャーナリズムという社会インフラが衰退しつつある。

ということです。

そして、実際に文化が衰退した例としてスペインやフランスの音楽業界の現状を挙げられています。

     

こうした「文化が失われる」という主張は何も岸氏だけが言っているわけではなく、たとえば大日本印刷と凸版印刷の2社が発起人として立ち上げた「電子出版制作・流通協議会」の協議会会長の高波氏は、協議会の設立趣旨について、

出版・印刷業界でこれ(AppleやAmazonのモデル)が中心となると、組版の文化など、日本の特殊性が失われる可能性があるという危ぐがある。海外の会社を排斥するのではなく、日本の文化を守ることが目的

と言っています。

両者が脅威と捉えているものは微妙に異なりますが、「文化」を守ろうとしている点では同じです。活字文化、出版文化、組版文化とさまざまに表現されながら彼らが守ろうとしている「文化」とは何を指しているのでしょうか。

     

ちょうど『ユリイカ』8月号が「電子書籍を読む!」という特集ですので、拾って紹介してみたいと思います。

たとえば、評論家の佐々木俊尚氏は「アンビエントの可能性」というインタビューで、

膨大な知の蓄積というのがわれわれの社会にはあるにもかかわらず、それらがすべて絶版とか既刊本になって消え去ってしまっている

文芸誌で連載させて最後に3000部の本を作って何とかトントンにする

と、現在の出版文化(というか制度)への否定的見解を述べられています。

また、コミュニケーション研究者の細馬宏通氏は「本の記憶、ページの記憶」という寄稿で、

わたしはある一文を読み返そうとするときに、それをページレイアウトの中の一部として思い出しているらしい

と、物理的な「本」がもつ身体性について言及されています。

小説家の桜坂洋氏は、「本の未来」という寄稿において、

出版社と呼ばれる「場」への参加権を得た者がつくるものだけが本と呼ばれるようになった

と、出版文化の権力性について批判的に言及されています。

朝日新聞社取締役の和氣靖氏への「電子書籍の未来に向けて」というインタビューによると、和氣氏の考える「紙」メディアの特性は、

・取り扱い説明書がいらず、子供からお年寄りまで読める

・取り扱いが簡便で一覧性があるので、読み手が自分の好きな読み方を意識せずにできる。ミクロな目とマクロな目を瞬時にして切り替えながら、読書スピードを変化させたり、見出しや要点だけにサッと目を通したり、考えながら読んだりできる

・装丁や紙の手触り、活字の印刷の匂いも含めて一体・テキストベースの書籍のプリミティブな良さとして、想像力が最大化される(電子書籍は様々な付加価値をつけていく方向)

というような点らしい。

ちなみに、和氣氏は同じ記事内で<日本語に根ざした出版文化には、それに適したプラットフォームとビジネスモデルがある>とし、そのフォーマットとしては<日本の出版社にとって出しやすい仕組みを整備することが大事>だとおっしゃっています。

     

結局、守られるべき「文化」とは何なのでしょうか? 縦書きで右から左へと流れる構成のことなのか、一部の特権層たちによる相互承認によって成り立っている「知」のことなのか、1万5千店におよぶ書店と3千館を超える公共図書館によって支えられる「本」へのアクセスの良さのことなのか。

ちなみに、出版社のような営利団体とはまた違った次元で日本の「本」にまつわる文化に関わってきた国立国会図書館館長の長尾真氏は、電子書籍のもつ「解体性(単語レベルに分解できる)」と「インタラクティブ性」を高く評価し、電子書籍に対して非常にポジティブなメッセージを送っておられます。

たとえば毎日新聞社会部の滝野隆浩氏が、電子教科書について8月11日に「うつむくデジタル」というタイトルで下記のような記事を挙げています。

優秀な子は自分でどんどん学んでいくのだろう。ネット世界には無限に近い知の集積がある。たまには義理で先生にメールで質問したりして。でも、先生は遅れている子を指導していて忙しくなかなか返事が書けない。イライラしていたら、電子知能の「ロボット先生」から優しい返信が届く……おお、星新一の世界ではないか。 近未来の教室を想像しながら、はっとした。みんな端末を見て、うつむいている。手を挙げて質問したり、仲間の珍妙な答えに笑い合ったり、あるいはどきどきしながら職員室に相談にいく、そんな光景がない

しかし長尾氏は、

たとえば物理の教科書などでボールを投げたらどのような軌道を描いて飛ぶか、といったことは式によって表現される。この時どの角度でどの初速度で投げればどこまでどのように飛ぶかは教科書の中で式の計算から動的にグラフィカルに魅せることができる(ユリイカ2010年8月号「電子書籍は新しい世界を開く」)

と、その具体的な可能性についてポジティブに言及されています。

    

結局のところ、電子書籍の台頭に際して守るべき「文化」というものが何なのか、少なくともユリイカ8月号からは拾えませんでした。

私が勝手に思うには、守るべき「文化」などというものはなく、あるのは出版というテクノロジーを占有することで生き永らえてきた業界と、その業界内であいまいに共有されてきた特権意識だけではないでしょうか。

 最後に、人文情報学者の師茂樹氏を紹介しておきます。

現在、電子書籍・電子出版が”活字”を殺す、文化を滅ぼすとヒステリックに叫んでいる人々は、そもそもその”活字”がそれ以前のメディアをすべてではないにせよ滅ぼしてきたことに、もっと自覚的になるべきであろう(ユリイカ2010年8月号 「公共の記憶」としての電子書籍)

     

※なお冒頭で取り上げた岸氏の記事に関しては、引用部分以外にも色んなことをおっしゃっています。このエントリーにおいては、岸氏があえて記事タイトルにまで記した「日本文化」という観点にのみ言及しており、記事全体を否定するものではありません。

iPadは電子書籍市場でトップシェアを取らない

iPadという商品(デバイス)、またApp Storeというプラットフォームは、電子書籍市場の勃興期において一時的な熱狂で大きくシェアを占めることはあっても、長期的にはトップシェアを取ることはないように思います。

 

2010年7月3日号の『週刊東洋経済』では<メディア覇権戦争>と題された特集が組まれており、そのトップニュースにおいてアップル社製品に対する日米の熱狂ぶりが取り上げられています。

ただし、その記事のタイトルは<アイフォーン熱狂の裏で進むアップル”閉鎖”主義>となっています。記事中では、アドビシステムズの動画再生技術「フラッシュ」のアップル社のよる締めだしを例に、アップル社の閉鎖性を指摘しています。

ただ、よく知られているように、アップル社の閉鎖性は今に限ったことではありません。

日本では都市部の若い女性層を中心にスタイリッシュなエンターテイメントツールとして話題を呼んでいるアップル社製品(iPod, iPhone, iPad)ですが、日本の都市部の若い女性層は、そもそもアップルブランドにとってのメインターゲットではありません。

 

アップルのブランドポジショニングは「反体制」という言葉に集約されるものです。

それは言うまでもなくマイクロソフトとの関係性のことを示唆しているのですが、もう一つのポジショニングの柱である「つねに人が中心にある」という「人道主義」もまた、マイクロソフトとのコントラストにおいてブランドポジショニングの確立を強固なものとしています。

そして、こうした「理念」を共有できる相手こそがアップル社にとってのターゲット顧客層なのであり、その明確な「理念」にもとづいてアップル社の製品は設計されています。

スタジオジブリの宮崎駿氏に<妙な手つきでさすっている仕草>と痛烈に批判されたあのインターフェースも、こうした理念のもとに選択されているのです。

また、有名な『金融日記』というブログで、<iPadはとても残念なプロダクト>というエントリーが2010年6月13日付けで上がっていますが、最近iPadを手に入れたという筆者がiPadの機能性を取り上げて批判的な文章を記しています。(こちらはこちらで『金融日記』のポジショニングを踏まえた上であえてこきおろしているのだと思いますが)

大切なことは、iPadにおいて機能性はけっして優先事項ではない、ということです。

ジャーナリストのナオミ・クライン氏が、アップル社はもはや製品を売っているのではない、と否定的に主張しているように、アップル社が売っているのは一つの「理念」であり、「夢」なのです。さらに言うなら、それを売っているというよりも、むしろ「共有」しているのです。

そうした「理念」や「夢」が、アップル社と消費者との間で共有されていることを象徴しているのがiPhoneであり、iPadであり、iPodなのです。

ですからアップル社が閉鎖的であるのは当然ですし、アップル社の基本的な経営戦略はそのような閉鎖的空間をベースとしていると言えるでしょう。

 

本国より遠く離れた日本という国においては、そういったアップル社の「理念」や「夢」といったものは薄れてソフトバンクのマーケティング色が強く出ていますが、アップル製品とは本来そういうものなのです。

 

アップル製品はけっして市場でトップシェアをとることがないのは、「反体制」をブランド戦略の骨子に抱えているアップルにとって、「体制」と化してしまうことはブランドの死を意味するからです。

上記に挙げた『金融日記』との関係において、「あえて」批判されるような位置関係に立ってしまっていること自体に、アップル社が望んでいるブランドポジショニングとソフトバンクのマーケティング戦略とのずれを見てとることができるでしょう。

ただ、これからアップル社は少しずつその閉鎖性を表面化させ、やがては市場において完全に外部から遮断された独立国家を創り上げることになるだろうと思います。

 

以上。