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カンブリア宮殿2010年8月23日放送分のレビュー

以下、『カンブリア宮殿』2010年8月23日放送分のレビューです。

 

今週のカンブリア宮殿は、<流通スペシャル「地方スーパーの逆襲」>。

番組内容は、消費不況で全国においてスーパーの苦戦(19ヵ月連続で前年同月比割れ)が続いているなか、地方にて独自戦略を取ることで収益増を達成しているスーパーがある、というものでした。

     

大きく紹介されたのは2つのスーパーで、埼玉県を中心に関東地方に106店舗展開する中堅スーパーの「ヤオコー」と、福岡でたった一店舗の地場スーパーながら地域シェアNo.1を保ち続けている人気店「スーパーまるまつ」です。

     

今回の放送で非常に印象深かったのは、後述するように「ヤオコー」のパートが非常によく教育されていてとても質が高いということです。番組内においては正確に確認できませんでしたが、ヤオコーHPの募集要項を見てみると、彼らパートの基本時給は800円ですが年二回の賞与もあって、それほど待遇は悪くなさそうです。

基本的に、「パート」という雇用形態で働く従業員に対して投資することはなかなか考えられません。それは、「パート」は従業員にとっては「いつでも辞められる」ものであり、雇用主にとっては「いつ辞められてしまうか分からないが、解雇が容易」というものだからです。

「ヤオコー」において、パート従業員への職業訓練という投資が、高いパフォーマンスとして企業利益に還元されていることの一因は、番組でも強調された「彼らパート従業員の主体性・創造性を最大限に尊重する」という企業の姿勢に依っているのだと思います。まさにピーター・F・ドラッカーが提唱する組織マネジメントを現実化している企業ですね。

      

さて、まずは「スーパーまるまつ」に関して簡単に番組の流れを追いたいと思います。まずその特徴として挙げられたのは、とにかく安いということでした。大手のように多店舗で大量仕入れを行っているわけではないにも関わらず、スーパーまるまつは大手スーパーをしのぐ低価格を達成しています。

その手法として取り上げられたのは、「単品カレンダー」と「消化仕入れ」と呼ばれているものです。

「単品カレンダー」とはいわゆるカレンダー化されたデータベースのことで、その日の天候や集客数、各商品の売れ行きなどを情報として過去から現在に至るまで収集したものです。たしかに地方の人口流動の少ない地域であれば、都市部のスーパーとは比較にならないほどそういったデータベースは有効でしょう。

実際、「スーパーまるまつ」ではこうしたデータベースの有効活用によって、廃棄ロスを2%に抑えることに成功しているようです。全国のスーパーの平均が4%だそうですので、半分にとどめていることになります。

こうして無駄に仕入れずに売れ残りを出さないようにすることで、価格を低く設定しても収益を保持できるように取り組まれているとのことでした。

もう一つの「消化仕入れ」と呼ばれるものは、exBuzzwords用語辞典によると<陳列する商品の所有権を卸業者やメーカーに残しておき、小売店で売上が上がったと同時に仕入が計上される取引形態のこと>だそうです。

要するに小売店の棚を使ってメーカーが自社商品を売り、売れた分だけ小売店がメーカーへ支払うということです。「スーパーまるまつ」では、陳列する商品選びから品だし、価格設定までもがメーカーに委ねられているようです。

このように従来は小売店が担ってきた役割をメーカーに任せることで、人件費等を削減することができ、低価格での販売が実現しているということです。

なお、メーカーに対しては通常より2%高い仕入価格で買い取ることで合意がなされています。

また、さらに別の取り組みとして挙げられていたのは「二重価格」制度で、いわゆる会員価格というものを設定しているという点です。「スーパーまるまつ」の会員になると、通常よりも時には半分近い価格で購入することができます。また年に数回、会員の中から抽選で野球観戦や宝塚観劇が当たるといったサービスも提供されています。

こうした囲い込み戦略によって、「スーパーまるまつ」のお客さんは9割近くが会員(=固定客)だそうです。ポイント還元などではなく「その場で安い」というのは確かに魅力的ですね。さらに、こうして顧客を囲い込むことによって、チラシなどのプロモーションにかかるコストをセーブすることができ、そうして浮いた利益をさらなる会員サービスへと投資することで好循環を維持できているようでした。

     

正直言って、この独自戦略として紹介された「スーパーまるまつ」には違和感があったのですが、最後に記します。

     

次に、もう一つのメインで紹介されたスーパーが「ヤオコー」です。

ヤオコーの独自戦略として紹介されたのは主に次の二点です。「店長の権限が強い」こと、そして「パートの主体性を尊重していること」です。

特に、パートはヤオコーでは「パートナー」と呼ばれており、惣菜調理の訓練を受けた「惣菜マイスター」や、独自判断で仕入れまで行っているパートがいるというから驚きです。

また、パートによる主体的な取り組みを発表する会がしばしば行われているそうで、それぞれの店舗あるいはチームによる取り組みのプレゼンテーション会が行われ、優秀者は表彰されていました。

こうして従業員に責任と権限を与え、「給与」以外における「働くことの喜び」を感じとってもらい、彼らの自主性を活かしていくという取り組みが、結果的にヤオコーにおける大手スーパーの追随を許さない競争優位性を確保することに繋がっています。

冒頭でも述べましたが、番組で紹介されていた通りの経営で上手くいっているのであれば、組織運営として素晴らしい成功事例だと思います。

    

さて「スーパーまるまつ」に関する違和感ですが、まず「消化仕入れ」なるものですが、正直私はそこに独自性の欠片も感じませんでした。

メーカーに棚貸しをして売れた分だけ仕入れ代金を払う、また商品選びから品だしまでメーカーに丸投げというその方法は、はっきり言って不動産業とさほど変わらないのではないでしょうか。

メーカーとの間で合意がなされているので外野がとやかく言う事ではありませんが、メーカーか、もしくはメーカーの従業員など、どこかで誰かが不当に搾取されているアンフェアな状況があるのではないかという疑念が残りました。余計なお世話ですが…。

またデータベースも画期的な区分法が採用されているわけではなく、社長の松岡義一氏がその日の販売数量を言い当てる場面が番組でハイライトされていましたが、田舎の非流動的な小規模マーケットにおいて慣習化された人々の行動予測はデータから正確に導き出される、というだけのことでいまいち革新性を感じません。

結局は、「消化仕入れ」と「行動予測にもとづく仕入れ量の最適化」という二つの方法で得た利益を、低価格&サービスという固定客の囲い込みに投資しているということで、ぱっとしないな、というのが正直なところでした。「消化仕入れ」も上記に述べたように地方独特のアンフェアさがあるような気がするという疑念を拭い切れず、独自戦略と銘打つには物足りないものを感じました

   

以上。

学校教育制度と職業訓練

8月5日の日経新聞Web刊によると、今春の大学新卒者の就職率が60.8%であったことが明らかになったそうです。これは就職氷河期と呼ばれるバブル崩壊後から2005年までの期間に匹敵するほど低い水準です。なお、大学卒業後に進学も就職もしなかった人は約8万7千人です。

 

彼らの世代は1987年生まれで、135万人いました。そして、今年大学を出て就職できたのは32万9千人だといいますから、1987年に生まれた彼らのうち、高校⇒大学へと進んで就職した者は全体の25%程度だということになります。

たとえば1991年時の大学新卒者における就職率は81.3%を記録していますが、就職者数は34万8千人で1987年世代と大差ありません。ちなみに彼ら1968年生まれの世代は187万人いたので、高校⇒大学へと進んで就職した者は全体の18%程度だったということになります。

 

ついでにもう一つ数字を挙げるなら、大学新卒者における就職者数は1990年以降30万人から35万人の間を推移しています。

つまり、<不況で企業が採用を絞った影響で、就職をあきらめた人も多かったとみられる(日経新聞8月5日>や、<一昨年秋のリーマン・ショックを受け、企業が新卒採用を大幅に抑制したためだ(MSN産経ニュース)>にあるような、いわゆるリーマン・ショック後の企業の急激な採用減という「不況の影響」などに関わらず、そもそも50万人を超える大卒者を雇うだけの雇用規模は日本には今もかつても存在しないということです。

大学新卒者の就職率は1955年以降つねに7割を超え、1960年から1968年までは8割を超えていました。まさに高学歴=高就職率という時代ですが、そんな時代を生きた世代の子供たちは今、激しい競争に晒されています。

そして、全入時代だなんだといわれて60万人を超えた2009年度の大学進学者たちは、今大学2年目の夏を迎えていることになります。

      

とはいえ、私は彼らの将来に高い関心をもっているわけではありません。

ここで考えたいのは、学校とは何か、ということです。

端的にいうと、それは「国家」が用意した「国民」を創り上げるための「制度」に他なりません。

     

たとえば批評家の柄谷行人氏は、学校教育制度について<近代日本の「義務教育」が、子供を「年齢別」にまとめてしまうことによって、従来の生産関係・諸階級・共同体に具体的に帰属していた子供を抽象的・均質的なものとして引きぬくことを意味した>と言っています(『近代日本文学の起源』)。

つまり、近代以前においては商人の息子は商人として、農民の息子は農民として、鍛冶屋の息子は鍛冶屋として、私たちが現代では「子ども」と見なす早い年齢のうちから職業訓練に従事させられていたということです。そして、そのような「子ども」たちを強制的に引き抜き、学校に帰属させることが「近代日本の義務教育」の始まりであったということです。

そして、柄谷氏は<徴兵制と学制が、「人間」を作り出したのだ>と言います(同上)。この「人間」とは近代における概念としての人間であり、「国民」と言い換えても構わないでしょう。

       

本来、義務教育(小・中学校)と高校・大学とは別物です。ただ、そういった原則論とは別に、小・中・高を含めて一つの学校教育制度と見なし、大学もその延長線上にうっすらと見えているというのが今の世間的な実状でしょう。

とはいえ、そのような実状として延長されつつある学校教育制度と、「就職」とがラインとして綺麗に繋がることは二つの理由から原理的にあり得ません。

 

その理由の一つは、学校教育制度が「制度」であることがくるフットワークの重さです。

目まぐるしく変化する経済社会において必要とされるスキルを学校で教えることはまず不可能です。未だに社会見学と称される授業の一環として「食品工場」を見学しに行くくらい、学校というところは実社会から遅れているのです。また、実社会経験のない教師がわんさかいるくらい、学校というところは社会から離れています。

そんな学校教育制度に訓練を求めたところで、30年後に「名刺の渡し方」が必須項目になるくらいのタイムラグは目に見えています。

もう一つの理由は、そもそも学校教育制度とは、将来的に起業したり、高い経済的価値を生み出したりするような人材を育成する場ではないということです。先に述べたように、学校教育とは「国民」を創り出すための制度なのであり、この「国民」とはたとえ「日本国民」であっても、けっして経済社会で優れた能力を発揮する人材とイコールではありません。むしろ、資本主義経済の価値基準と、国民国家における国民の価値基準とは互いに相反するものなのです。

ところで、そのような「国家」や学校教育制度において職業訓練を取り入れようという議論があります。たとえば『Japan Mail Media』において肥和野 佳子さんという国際税務士の方が、「米国の解雇」という記事で次のように書いています。

「雇用を守る」ということに関しては、いろいろな考え方があると思うし、様々な意見があって当然と思うが、従業員の生活を守るのは本来的に企業の役割だろうかということを、真摯に考えてみるのも良いと思う。解雇された人の生活を守るのは、本来国の役割、社会福祉の役割であり、日本の経済成長の時代は企業が余剰人員を解雇せず抱えて、肩代わりしてきただけという考え方もある。国が企業に解雇を難しくさせることで、ほんとうに労働者の働く環境は全体として良い方向に向かうのだろうか。解雇された人を一定期間経済的に支援し、職がみつからない人にあらたな訓練を保証し、労働市場で売れるスキルを付けさせるのが国の役割だろう。何も訓練されないまま、売れるスキルも持っていなければ仕事が無いのは当たり前。こうした就労再教育を北欧諸国のように、もっと充実させるべきだろう。

たまたま直近で上記の記事を見たので取り上げましたが、こういった考えは肥和野氏に限ったことではなく、色んなところで見聞きします。

しかしこの記事で書いてきたように、職業訓練を「国家」に求める事は根本的に大きな間違いなのです。学校教育制度に職業訓練を組み込んだり、失業者への職業訓練を実施したり、そういうことを国に求めるのは少なくとも役所の仕事が税金に見合ったレベルにあると実感できるまでは避けるべきでしょう。

     

それでは職業訓練というものをどう社会に組み込んでいくべきでしょうか。

その一つの方向性としては、先に挙げた肥和野 佳子さんの同じ記事の中でも言及されていますが、まずは労働市場の流動性確保だと考えられます。

上記記事で引用したのとは別の部分で肥和野さんも述べられていますが、解雇が容易だということは、裏を返せば再就職先が多いということです。労働市場が流動化し活発化すれば、労働者を商品とする企業にとってこれまで以上に事業を展開していくことが可能となります。つまり、労働者という商品の「リユース」・「リサイクル」という観点で職業訓練を捉えるということです。

     

今多くの転職サービス会社で行われているものは、悪く言えば労働者という商品を企業から企業へ横流しするだけでマージンを取るというビジネスで、実は扱っているのは労働者ではなく情報です。

たとえば以前は年収300万円だった会社員に対して、30万円のコストを自社負担して英語を学ばせることで年収400万円へと商品価値を高める、というようなことはほとんどありません。

その理由の一つに、このキャリアにそのスキルが加わればいくらで売れる、という見通しが立たないからリスクが大きすぎて出来ないということがあると思います。そして見通しが立たないのは、市場規模が十分に大きくないからだと考えられます。

たとえば「英語が話せて、アルバイトスタッフの管理経験があり、○○○で、×××な人。年収450万円」というポストが毎年平均して全国で1,500名前後の求人がかかる、ということが見通せるのであれば、上記の会社員に対する職業訓練の例のような事業は成り立つでしょう。

     

もちろん、労働市場の流動性だけを高めれば良いという訳ではありません。硬直した労働市場には、それ相応の文化的背景が必ずあるのです。

たとえば、Job DescriptionもしくはJob Profileという言葉が日本の雇用文化で広く浸透していない、ということの背景のことであったりします。

 

ただ確実なことは、これまで日本で育まれてきた新卒主義や企業内OJTといった雇用文化が、今やうまく機能しなくなりつつあるということではないでしょうか。

そして、いずれにしても職業訓練なるものを「国家」に任せてはいけない、ということです。それはあくまで民間が担うべきもので、「国家」行為として議論すべきことは、民間企業が労働者を「我が社の」商品として扱うインセンティブをもてるように、いかに規制や補助制度などを整備するか、という点に尽きるのだと思います。

 

以上。