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『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』のレビュー

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書) 世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)
柄谷 行人 by G-Tools岩波書店 2006-04
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「新自由主義」とはアメリカ的なものを指しており、”自由”に重きを置く一方で、”平等”を犠牲にするものです。それは、たとえばアメリカでは年俸何十億と稼ぐ一流アスリートやCEOがいる一方で、同じアメリカ南部においては貧困が存在しているということに表れています。

     

基本的に自由と平等はトレードオフ(どちらかを重視すればどちらかが軽視されてしまうシーソーのような関係)にあり、かつては新自由主義(自由重視・平等軽視)に対する強固なアンチテーゼとしてソ連を中心とした共産圏(平等重視・自由軽視)がありました。
しかし、共産圏崩壊後の今日において、世界中で「新自由主義(=アメリカ的なもの、資本主義的なもの)」が絶対的なものとして君臨してしまっています。

     

一方そのような新自由主義への新たな対抗として、各地で宗教的な原理主義という形をとった排外的な運動が起こっています。いわゆる大手メディアで「テロ」と呼ばれるものがそれにあたります。
本書著者の柄谷氏によれば、そのようなファンダメンタリズムは、結局は社会民主主義に行きつくほかにない、つまりその理念を現実にしていこうとするとケインズ主義的な福祉国家モデルに帰着するしかないのだといいます。
しかし、福祉国家のモデルは、いわば戦後の「社会主義」への危機感から先進資本主義国家がとった形態であって、「社会主義」圏が崩壊してしまうと、先進資本主義国家にとっては、福祉国家への動機はなくなってしまいます。

     

「社会主義」は崩壊し、宗教原理主義も対抗できないのだとすると、いかにして世界は新自由主義に対抗する有効策を持ち得ることができるのでしょうか。

それが本書における主題です。

     

上記の問題意識に対して柄谷氏は、本書でカントによる「世界共和国」の理念を提示します。
その「世界共和国」がどのようなものかについては本書をご参照いただきたいのですが、その際に重要なのは、そのような「世界共和国」の実現が可能か不可能かということではありません。

     

それが不可能だとして退ける一方で、それに代わる有効な「理念」を示し得ず、むしろ「理念」というものを「大きな物語」として軽視し、ただただ現実を肯定するしかない「モダニズム」を柄谷氏は批判しています。

     

重要なのは、実現が可能か不可能かではなく、そこへ「至ろうとする」ことです。人々がそこへ至ろうとする「理念」を持ち得ることだけが現在の新自由主義に対抗できる唯一の有効策なのであり、それこそがカントのいう「統整的理念」であり、「世界共和国」なのだと柄谷氏はいいます。
またその「世界共和国」へと至る道筋を示すことこそが本書において柄谷氏が試みた仕事です。
言うまでもありませんが、それは、そこへ「至る」ための道筋なのではなく、人々がそこへ「至ろうとする」ための道筋です。

     

以上。

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PRIME NEWS 2010年8月19日放送分のレビュー

以下、『PRIME NEWS』2010年8月19日放送分のレビューです。

8月19日放送分では、<なぜ今【ピーター・F・ドラッカー】が注目されるのか? 知の巨人、経営学の神様が残したマネジメント論を学ぶ>と題しての、ドラッカー特集でした。

ゲストは、『もしも野球部の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(以下『もしドラ』)の著者である岩崎夏海氏、ドラッカー学会の会員で立命館大学経営学部教授の三浦一郎氏。またキャスターとして慶応義塾大学総合政策学部教授の上山信一氏という顔ぶれでした。

     

番組ではドラッカー氏における経営、組織、社会的責任とテーマを区切って進んでいくのですが、経営の部分において、ドラッカー氏による「顧客の創造」ということがメインテーマになりました。

そのなかで、『もしドラ』において主人公である南が、自身がマネージャーを務める野球部において考える顧客とは、「部員」・「親」・「先生」・「学校」・「東京都民」・「高野連」・「高校野球ファン」だと紹介されました。そして、彼ら顧客に対して「感動を与えること」が当野球部という組織にとってのミッションだそうです。

また、実際の「顧客の創造」において岩崎氏は、『もしドラ』を、購入者にとって「読むための」本という従来的な商品定義から一歩進めて、「人に薦める」本(=贈答品)として位置づけようとされたとのことです。これは、「人に薦めたくなる」本ではなく「人に薦める」本というのがポイントだと思います。両者においては商品の「価値」が決定的に異なるからです。

     

一方番組においては、顧客の創造は二つの切り口から見ることができる点で進行されていきます。その一つはマーケティング的観点で、リサーチにおいて明らかとなった顧客の顕在欲求としてのニーズを満たすことを指しています。もう一つはイノベーションの観点で、未だ潜在的なものにとどまっている顧客のニーズを読み取り、新たな満足を生み出すことです。

リサーチに関して三浦氏は、一般的に顧客が自ら意識してわかっていることは調べられるが、わかっていないことは調べられないとおっしゃっていました。

これはかなり以前から指摘されているマーケットリサーチの欠点で、たとえば『マーケティングの神話』(1993年)において著者の石井淳蔵氏は、

(消費者は)口に出る言葉以上に、いろいろなことが実はよくわかっている。「洗濯機に何か不満はないですか」と言われれば思いつかないが、「音がうるさいでしょう」と言われればその通りだと思う。

と述べられており、<消費者欲望ないしはニーズは消費者によって自覚されることはあるのか>と疑問を呈されています。

近年おいて急成長した一部の先端的なマーケティングを行っている会社では、実際にマーケットリサーチの位置付けは以前よりも低いものとなっています。

     

つぎに番組における組織運営のパートにおいてですが、ドラッカー氏が人のマネジメントにおいて、「組織の目的は人の強みを生産に結び付け、人の弱みを中和することにある」と述べたことを紹介されました。

大事なことは、ここからマネジメント論へと入っていくことではなく、まずドラッカー氏におけるその(強み/弱み)を判断する基準を考察することではないでしょうか。たとえば岩崎氏は『もしドラ』の高校野球部においてにおいて、「勝つ」ことと同時に「顧客満足」を得る、という新しい基準を提示しました。これは後述するようにドラッカー氏の思想に対して非常に忠実なものとなっています。

       

最後のテーマは、ドラッカー氏の社会的責任論です。引用された氏の言葉は、「現代の組織は、それぞれの分野において社会に貢献するたあめに存在する。それは、社会の中に存在する。地域の中に存在する。隣人として存在する。そして社会の中で活動する」というものでした。

これに対して上山信一氏は「共産党宣言みたい」とおっしゃっていましたが、共産党宣言というよりもこれはアソシエーショニズムだといえると思います。

たとえば言語学者のノーム・チョムスキー氏は、国家の形態を「リベラリズム」、「福祉国家資本主義」、「国家社会主義」、「リバタリアン社会主義」という四つに分類しました。

批評家の柄谷行人氏は、上記チョムスキーの分類に従いつつ、「リバタリアン社会主義」を「アソシエーショニズム」と言い換えました。

資本主義的な社会構成体には、逆にそこから出ようとする運動が生じます。それは、商品交換(リベラリズム)という位相において開かれた自由な個人の上に、互酬的交換(国家社会主義)を回復しようとするものだといってよいでしょう。私はそれをアソシエーションと呼ぶことにします。(『世界共和国へ』)

※文中()は私による表記です。

つまり、市場原理主義的なものの空間のなかで共産主義的なものを回復すること、それを柄谷氏はアソシエーショニズムと言っています。

上記ドラッカー氏による企業の社会的責任論を上山氏が「共産党宣言みたい」とおっしゃったのが間違ってはいるものの言い得て妙なのは、ドラッカー氏は、企業において利潤追求(市場原理主義的なもの)をベースにその社会的貢献(共産主義的なもの)を志向したからです。

先ほどの話ですが、岩崎氏の『もしドラ』における「勝利」と「顧客満足」の関係には、こうしたドラッカー氏のスタンスへの忠実さが表れていると言えるのではないでしょうか。

     

今日においてP.F.ドラッカーをマネジメント論として読むことに新しさはありません。組織体の「強み」と「弱み」を「機会」と「脅威」に照らして分析する手法(いわゆるSWOT分析)はすでにどこの企業でも取り入れられているものです。

重要なことは、こうした方法論としてP.F.ドラッカーを読み直すことにあるのではなく、組織体を「強み」と「弱み」に振り分けるその「基準(=思想)」、方法論としてのマネジメントを生み出し続けるその源泉に遡って思考するべきなのではないかと思います。

     

以上

学校教育制度と職業訓練

8月5日の日経新聞Web刊によると、今春の大学新卒者の就職率が60.8%であったことが明らかになったそうです。これは就職氷河期と呼ばれるバブル崩壊後から2005年までの期間に匹敵するほど低い水準です。なお、大学卒業後に進学も就職もしなかった人は約8万7千人です。

 

彼らの世代は1987年生まれで、135万人いました。そして、今年大学を出て就職できたのは32万9千人だといいますから、1987年に生まれた彼らのうち、高校⇒大学へと進んで就職した者は全体の25%程度だということになります。

たとえば1991年時の大学新卒者における就職率は81.3%を記録していますが、就職者数は34万8千人で1987年世代と大差ありません。ちなみに彼ら1968年生まれの世代は187万人いたので、高校⇒大学へと進んで就職した者は全体の18%程度だったということになります。

 

ついでにもう一つ数字を挙げるなら、大学新卒者における就職者数は1990年以降30万人から35万人の間を推移しています。

つまり、<不況で企業が採用を絞った影響で、就職をあきらめた人も多かったとみられる(日経新聞8月5日>や、<一昨年秋のリーマン・ショックを受け、企業が新卒採用を大幅に抑制したためだ(MSN産経ニュース)>にあるような、いわゆるリーマン・ショック後の企業の急激な採用減という「不況の影響」などに関わらず、そもそも50万人を超える大卒者を雇うだけの雇用規模は日本には今もかつても存在しないということです。

大学新卒者の就職率は1955年以降つねに7割を超え、1960年から1968年までは8割を超えていました。まさに高学歴=高就職率という時代ですが、そんな時代を生きた世代の子供たちは今、激しい競争に晒されています。

そして、全入時代だなんだといわれて60万人を超えた2009年度の大学進学者たちは、今大学2年目の夏を迎えていることになります。

      

とはいえ、私は彼らの将来に高い関心をもっているわけではありません。

ここで考えたいのは、学校とは何か、ということです。

端的にいうと、それは「国家」が用意した「国民」を創り上げるための「制度」に他なりません。

     

たとえば批評家の柄谷行人氏は、学校教育制度について<近代日本の「義務教育」が、子供を「年齢別」にまとめてしまうことによって、従来の生産関係・諸階級・共同体に具体的に帰属していた子供を抽象的・均質的なものとして引きぬくことを意味した>と言っています(『近代日本文学の起源』)。

つまり、近代以前においては商人の息子は商人として、農民の息子は農民として、鍛冶屋の息子は鍛冶屋として、私たちが現代では「子ども」と見なす早い年齢のうちから職業訓練に従事させられていたということです。そして、そのような「子ども」たちを強制的に引き抜き、学校に帰属させることが「近代日本の義務教育」の始まりであったということです。

そして、柄谷氏は<徴兵制と学制が、「人間」を作り出したのだ>と言います(同上)。この「人間」とは近代における概念としての人間であり、「国民」と言い換えても構わないでしょう。

       

本来、義務教育(小・中学校)と高校・大学とは別物です。ただ、そういった原則論とは別に、小・中・高を含めて一つの学校教育制度と見なし、大学もその延長線上にうっすらと見えているというのが今の世間的な実状でしょう。

とはいえ、そのような実状として延長されつつある学校教育制度と、「就職」とがラインとして綺麗に繋がることは二つの理由から原理的にあり得ません。

 

その理由の一つは、学校教育制度が「制度」であることがくるフットワークの重さです。

目まぐるしく変化する経済社会において必要とされるスキルを学校で教えることはまず不可能です。未だに社会見学と称される授業の一環として「食品工場」を見学しに行くくらい、学校というところは実社会から遅れているのです。また、実社会経験のない教師がわんさかいるくらい、学校というところは社会から離れています。

そんな学校教育制度に訓練を求めたところで、30年後に「名刺の渡し方」が必須項目になるくらいのタイムラグは目に見えています。

もう一つの理由は、そもそも学校教育制度とは、将来的に起業したり、高い経済的価値を生み出したりするような人材を育成する場ではないということです。先に述べたように、学校教育とは「国民」を創り出すための制度なのであり、この「国民」とはたとえ「日本国民」であっても、けっして経済社会で優れた能力を発揮する人材とイコールではありません。むしろ、資本主義経済の価値基準と、国民国家における国民の価値基準とは互いに相反するものなのです。

ところで、そのような「国家」や学校教育制度において職業訓練を取り入れようという議論があります。たとえば『Japan Mail Media』において肥和野 佳子さんという国際税務士の方が、「米国の解雇」という記事で次のように書いています。

「雇用を守る」ということに関しては、いろいろな考え方があると思うし、様々な意見があって当然と思うが、従業員の生活を守るのは本来的に企業の役割だろうかということを、真摯に考えてみるのも良いと思う。解雇された人の生活を守るのは、本来国の役割、社会福祉の役割であり、日本の経済成長の時代は企業が余剰人員を解雇せず抱えて、肩代わりしてきただけという考え方もある。国が企業に解雇を難しくさせることで、ほんとうに労働者の働く環境は全体として良い方向に向かうのだろうか。解雇された人を一定期間経済的に支援し、職がみつからない人にあらたな訓練を保証し、労働市場で売れるスキルを付けさせるのが国の役割だろう。何も訓練されないまま、売れるスキルも持っていなければ仕事が無いのは当たり前。こうした就労再教育を北欧諸国のように、もっと充実させるべきだろう。

たまたま直近で上記の記事を見たので取り上げましたが、こういった考えは肥和野氏に限ったことではなく、色んなところで見聞きします。

しかしこの記事で書いてきたように、職業訓練を「国家」に求める事は根本的に大きな間違いなのです。学校教育制度に職業訓練を組み込んだり、失業者への職業訓練を実施したり、そういうことを国に求めるのは少なくとも役所の仕事が税金に見合ったレベルにあると実感できるまでは避けるべきでしょう。

     

それでは職業訓練というものをどう社会に組み込んでいくべきでしょうか。

その一つの方向性としては、先に挙げた肥和野 佳子さんの同じ記事の中でも言及されていますが、まずは労働市場の流動性確保だと考えられます。

上記記事で引用したのとは別の部分で肥和野さんも述べられていますが、解雇が容易だということは、裏を返せば再就職先が多いということです。労働市場が流動化し活発化すれば、労働者を商品とする企業にとってこれまで以上に事業を展開していくことが可能となります。つまり、労働者という商品の「リユース」・「リサイクル」という観点で職業訓練を捉えるということです。

     

今多くの転職サービス会社で行われているものは、悪く言えば労働者という商品を企業から企業へ横流しするだけでマージンを取るというビジネスで、実は扱っているのは労働者ではなく情報です。

たとえば以前は年収300万円だった会社員に対して、30万円のコストを自社負担して英語を学ばせることで年収400万円へと商品価値を高める、というようなことはほとんどありません。

その理由の一つに、このキャリアにそのスキルが加わればいくらで売れる、という見通しが立たないからリスクが大きすぎて出来ないということがあると思います。そして見通しが立たないのは、市場規模が十分に大きくないからだと考えられます。

たとえば「英語が話せて、アルバイトスタッフの管理経験があり、○○○で、×××な人。年収450万円」というポストが毎年平均して全国で1,500名前後の求人がかかる、ということが見通せるのであれば、上記の会社員に対する職業訓練の例のような事業は成り立つでしょう。

     

もちろん、労働市場の流動性だけを高めれば良いという訳ではありません。硬直した労働市場には、それ相応の文化的背景が必ずあるのです。

たとえば、Job DescriptionもしくはJob Profileという言葉が日本の雇用文化で広く浸透していない、ということの背景のことであったりします。

 

ただ確実なことは、これまで日本で育まれてきた新卒主義や企業内OJTといった雇用文化が、今やうまく機能しなくなりつつあるということではないでしょうか。

そして、いずれにしても職業訓練なるものを「国家」に任せてはいけない、ということです。それはあくまで民間が担うべきもので、「国家」行為として議論すべきことは、民間企業が労働者を「我が社の」商品として扱うインセンティブをもてるように、いかに規制や補助制度などを整備するか、という点に尽きるのだと思います。

 

以上。