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ビールが象徴するもの

“モーニングスター”というサイトで、「生き残りをかけるビール業界」という記事があがっています。

日本国内に関しては、アサヒとキリンという大手の株価推移を取り上げながら、全体としてビール各社が苦境を強いられているという論調で記事が書かれています。

日本におけるビールの歴史は江戸時代にまで遡るほど古いものですが、「今」どのような消費文化が形成されているか、という点を見ることが今後を見通すうえで重要となってくるでしょう。

 簡潔に述べるなら、今日本において「ビール」という商品の消費はサラリーマンという集団のもつ二つの文化・ライフスタイルを象徴しています。一つは家族間コミュニケーションに積極的ではなく、御茶の間ではテレビで野球中継を観戦してきた高度経済成長期における「父」の在り方。もう一つは日本の企業文化における未だに強い同期生意識と上下関係、そして会社への高い帰属心です。

前者はビールの家庭内消費と結びつき、後者は外食におけるビールの消費を結びついてきました。たとえばプロ野球とビールとは強い関連性をもって一つの文化を形成してきました。プロ野球観戦では今でもスタンドで売り子によってビールが売られている光景を見ることができますし、優勝チームにおいて祝勝会でシャンパンファイトならぬ「ビールかけ」が行われます。

テレビと冷蔵庫の普及が進んだ1960年代以降、仕事を終えて帰宅したサラリーマンが、ビールを片手に野球中継を観戦するという一つの御茶の間文化が日本において形成されており、2000年頃までは巨人戦の平均視聴率はおよそ20%だったといいますから、それがいかに日本の至る所で見られた光景であったかは想像に難くありません。

もちろん、そのような文化・生活スタイルはビールという一個の商品カテゴリーにだけに象徴されているのではなく、つまみやちゃぶ台、野球中継時の広告枠など他の多くの商品群とともに、相補的に発展してきたものです。

 

言語学者のソシュールは、言語の本質を「意味するもの」と「意味されるもの」の結合に見出しました。つまり、言葉の意味はアプリオリにあるのではなく、差異体系における示差的な関係として現れるというのです。

またフランスの思想家であるボードリヤールは、現代の消費社会において、モノは使用価値としての物理的属性だけでなく、一つの記号として文化的価値を消費されているといっています。

こうした考えは今や新しいものではなく、たとえば人類学者のグラント・マクラッケンは、車/パソコン/洗濯機のような機能性分類ではない、モノの文化的側面に注目したときに形成される商品群を指してディドロ統合体という概念を用いて説明しています。

 

商品(モノ)は、社会内で生産・流通・消費されていく過程において「意味」を獲得します。誤解を避けるためにより正確に表現すると、社会内における商品(モノ)の生産・流通・消費は「意味」の発生を必ず伴うのです。若者のビール離れは、ビールという商品消費における文化的背景の変化を示していると考えられます。マクラッケンに従って表現すると、ビールという商品を部分にもつ一つのディドロ統合体が失われつつあるということになるでしょうか。

簡単に言うと、「ビールなんてオヤジの飲み物で古臭いよ」ということですが、企業側にとってはその程度の認識ではすまされない状況があります。

仮に、もし「若者向けの新しいビール」なるものを作ろうとしている企業があるならば、やめておいたほうが賢明でしょう。「ビール」という言葉のもつ意味(それが連想させるイメージ)もまた、ディドロ統合体に含まれているのですから。全く新しいブランドの確立、つまり商品・流通・価格・プロモーション、すべてにおいて刷新しなければ、「ビール」を含むディドロ統合体の意味体系に結局は回収されてしまうことになります。

アルコール飲料メーカーにとって苦しいのは(他の大企業も同じですが)、国内においてかつてビールが創り上げたようなマス・マーケットがもはや存在しえなくなりつつある、という点でしょう。人々の趣味・趣向・価値観が多様化していく現代にあたって、以前のように莫大な利益をもたらすディドロ統合体は国内的には成立し得ないのです。

大企業にとって取り得る選択肢は多くありませが、キリンとサントリーの経営統合が破綻した今となっては当面国外マーケットに大きく打って出ることは厳しくなったと言わざるを得ません。

逆に言うと、けっして大きくはない企業にとって、あるいはこれから新規参入しようという企業にとって、今こそチャンスが広がっている時代は戦後以来この国にはなかったのではないか、とも捉えることができるのではないでしょうか。