カテゴリー : 社会について

守るべき日本文化って何?

『Voice』にて、慶応義塾大学教授の岸博幸氏が<電子書籍が日本文化を破壊する日>という記事を書いています(2010年5月31日)。

同様の趣旨のことを、2010年7月3日号の『週刊東洋経済』においても池田信夫氏との対談で述べられています。

両メディアで共通する岸氏の認識を簡単に抜粋/要約すれば、

無料でコンテンツを提供し広告収入で対価を得るというインターネット上のビジネスモデルが広く普及したことで、コンテンツ企業やマスメディアの収益が悪化し、世界中で文化やジャーナリズムという社会インフラが衰退しつつある。

ということです。

そして、実際に文化が衰退した例としてスペインやフランスの音楽業界の現状を挙げられています。

     

こうした「文化が失われる」という主張は何も岸氏だけが言っているわけではなく、たとえば大日本印刷と凸版印刷の2社が発起人として立ち上げた「電子出版制作・流通協議会」の協議会会長の高波氏は、協議会の設立趣旨について、

出版・印刷業界でこれ(AppleやAmazonのモデル)が中心となると、組版の文化など、日本の特殊性が失われる可能性があるという危ぐがある。海外の会社を排斥するのではなく、日本の文化を守ることが目的

と言っています。

両者が脅威と捉えているものは微妙に異なりますが、「文化」を守ろうとしている点では同じです。活字文化、出版文化、組版文化とさまざまに表現されながら彼らが守ろうとしている「文化」とは何を指しているのでしょうか。

     

ちょうど『ユリイカ』8月号が「電子書籍を読む!」という特集ですので、拾って紹介してみたいと思います。

たとえば、評論家の佐々木俊尚氏は「アンビエントの可能性」というインタビューで、

膨大な知の蓄積というのがわれわれの社会にはあるにもかかわらず、それらがすべて絶版とか既刊本になって消え去ってしまっている

文芸誌で連載させて最後に3000部の本を作って何とかトントンにする

と、現在の出版文化(というか制度)への否定的見解を述べられています。

また、コミュニケーション研究者の細馬宏通氏は「本の記憶、ページの記憶」という寄稿で、

わたしはある一文を読み返そうとするときに、それをページレイアウトの中の一部として思い出しているらしい

と、物理的な「本」がもつ身体性について言及されています。

小説家の桜坂洋氏は、「本の未来」という寄稿において、

出版社と呼ばれる「場」への参加権を得た者がつくるものだけが本と呼ばれるようになった

と、出版文化の権力性について批判的に言及されています。

朝日新聞社取締役の和氣靖氏への「電子書籍の未来に向けて」というインタビューによると、和氣氏の考える「紙」メディアの特性は、

・取り扱い説明書がいらず、子供からお年寄りまで読める

・取り扱いが簡便で一覧性があるので、読み手が自分の好きな読み方を意識せずにできる。ミクロな目とマクロな目を瞬時にして切り替えながら、読書スピードを変化させたり、見出しや要点だけにサッと目を通したり、考えながら読んだりできる

・装丁や紙の手触り、活字の印刷の匂いも含めて一体・テキストベースの書籍のプリミティブな良さとして、想像力が最大化される(電子書籍は様々な付加価値をつけていく方向)

というような点らしい。

ちなみに、和氣氏は同じ記事内で<日本語に根ざした出版文化には、それに適したプラットフォームとビジネスモデルがある>とし、そのフォーマットとしては<日本の出版社にとって出しやすい仕組みを整備することが大事>だとおっしゃっています。

     

結局、守られるべき「文化」とは何なのでしょうか? 縦書きで右から左へと流れる構成のことなのか、一部の特権層たちによる相互承認によって成り立っている「知」のことなのか、1万5千店におよぶ書店と3千館を超える公共図書館によって支えられる「本」へのアクセスの良さのことなのか。

ちなみに、出版社のような営利団体とはまた違った次元で日本の「本」にまつわる文化に関わってきた国立国会図書館館長の長尾真氏は、電子書籍のもつ「解体性(単語レベルに分解できる)」と「インタラクティブ性」を高く評価し、電子書籍に対して非常にポジティブなメッセージを送っておられます。

たとえば毎日新聞社会部の滝野隆浩氏が、電子教科書について8月11日に「うつむくデジタル」というタイトルで下記のような記事を挙げています。

優秀な子は自分でどんどん学んでいくのだろう。ネット世界には無限に近い知の集積がある。たまには義理で先生にメールで質問したりして。でも、先生は遅れている子を指導していて忙しくなかなか返事が書けない。イライラしていたら、電子知能の「ロボット先生」から優しい返信が届く……おお、星新一の世界ではないか。 近未来の教室を想像しながら、はっとした。みんな端末を見て、うつむいている。手を挙げて質問したり、仲間の珍妙な答えに笑い合ったり、あるいはどきどきしながら職員室に相談にいく、そんな光景がない

しかし長尾氏は、

たとえば物理の教科書などでボールを投げたらどのような軌道を描いて飛ぶか、といったことは式によって表現される。この時どの角度でどの初速度で投げればどこまでどのように飛ぶかは教科書の中で式の計算から動的にグラフィカルに魅せることができる(ユリイカ2010年8月号「電子書籍は新しい世界を開く」)

と、その具体的な可能性についてポジティブに言及されています。

    

結局のところ、電子書籍の台頭に際して守るべき「文化」というものが何なのか、少なくともユリイカ8月号からは拾えませんでした。

私が勝手に思うには、守るべき「文化」などというものはなく、あるのは出版というテクノロジーを占有することで生き永らえてきた業界と、その業界内であいまいに共有されてきた特権意識だけではないでしょうか。

 最後に、人文情報学者の師茂樹氏を紹介しておきます。

現在、電子書籍・電子出版が”活字”を殺す、文化を滅ぼすとヒステリックに叫んでいる人々は、そもそもその”活字”がそれ以前のメディアをすべてではないにせよ滅ぼしてきたことに、もっと自覚的になるべきであろう(ユリイカ2010年8月号 「公共の記憶」としての電子書籍)

     

※なお冒頭で取り上げた岸氏の記事に関しては、引用部分以外にも色んなことをおっしゃっています。このエントリーにおいては、岸氏があえて記事タイトルにまで記した「日本文化」という観点にのみ言及しており、記事全体を否定するものではありません。

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強欲な資本主義

政治ジャーナリストの田原総一郎氏が、複数のメディアを通じて「強欲な資本主義」論を展開しています。

たとえば、2010年8月5日にアップされた日経BPnetの時評コラムにおいて、

強欲な資本主義に「正義」はあるだろうか

というタイトルで記事が上がっており、また2010年8月20日号の『週刊朝日』のコラムにおいて、

<「強欲資本主義」の現代にはマルクスが必要だ>

との記事を上げられています。

いずれの記事も、日本の国内上場企業において1億円以上の報酬を受け取った役員の名前と報酬が有価証券報告書に記載されたことを題材に、保険会社のAIGなどアメリカの金融業界における巨額の報酬がいかに常軌を逸した水準に達しているかを、歴史的に、また他国との比較において検討したものです。

そしてその論の結びにおいて、「マルクス」や「強欲資本主義」という言葉を挙げてそのような巨額報酬の現状を批判しています。

 

私個人としては、それがアメリカのことであっても、日本国内のことであっても、一個人が巨額の報酬を「得る」ことに特に大きな憤りは感じません。たとえそれが不当に得られたものであったとしても、目くじらを立てて怒るほどのことでもないように感じます。

逆に私にとって関心があるのは、数億、もしくは数十億という報酬を得た彼らが、今後「何に対してそれを支出するか」です。批判されるべきは、そのお金を彼らが「貯め込み」、自身の老後や子孫に対して脈々と受け継がれていくことではないでしょうか。しかし、その大部分が消費や投資に向くのであれば、目くじらを立てて批判するほどのことでもないように思います。

 

ところで、何にお金を使うかは個人の勝手だ! として家計の支出をプライベートな事柄として詮索・評価させまいという社会的風潮があるように感じますが、なぜ「高額所得」に関してはメディアによって大々的に報道され評価されてしまうのに、「支出(消費)」が社会的に評価されないのか、不思議です。

 

社会学者のヴェブレンは、『有閑階級の理論 』で、過剰と浪費は富裕層の「特権」ではなく「義務」だという趣旨のことを述べています。

 

浪費が高額所得者にとっての「義務」だとまでは言わなくても、公正な「所得」について熱く議論するのと同じように、「支出(消費)」の倫理についての議論が必要とされているのではないでしょうか。

ガイアの夜明け 「価格vs個性 ~ここまで来た!新・外食戦争~」

先日放送されたガイアの夜明け2010年8月10日放送分では、外食産業の現状が取り上げられました。

270円均一という低価格サービスで攻勢を強める外食チェーンと、古き良き時代の雰囲気を再現する「横丁」に活路を見出す個人経営の飲食店という構図で、現在の外食産業における取り組みが紹介されていました。

 

外食チェーンの強みは、「低価格」よりもむしろ価格を含めた「信用」にあるといえるでしょう。つまり、「○○○」という居酒屋に行けばある一定の「安定したサービス」を受けられるという消費者にとっての予測可能性です。逆に個人経営型飲食店にとっての強みは「個性」すなわち「顧客ロイヤリティの高さ」ではないでしょうか。

一概にはいえないかもしれませんが、外食チェーンは大量な顧客を相手にすることで外因性の変化に強いものの、常に変革を求められるという宿命を背負っています。逆に、個人経営型飲食店は、一部の既存顧客を相手にすることでランニングコストを抑えることができるものの、資本力もなく外因性の変化に弱いといえるのではないでしょうか。

 

「横丁」の再現という戦略が正しいのかどうかはわかりませんが、個人経営型飲食店が集まることで多様性を確保していこうという試みはとても興味深いものでした。

 

また、番組を見ていて面白かったのが、外食チェーン側の企業として紹介されていた「三光マーケティングフーズ」と、「横丁」プロデューサ―として個人経営飲食店側において紹介されていた浜倉好宣さんとのコントラストでした。

 

「三光マーケティングフーズ」は「注文のタッチパネル化」や「最新の調理機器」の導入や、ドミナント戦略による地域集中投資型マーケティングなど、いかにも「新しい」ものとして紹介されており、仕入れ総責任者が価格交渉に訪れた先は地方の食品加工「工場」でした。しかし、その社内に目を向けると壁に貼られた紙資料や、新商品に義務付けられている社長承認、男性ばかりの従業員、職場で飛び交う怒号など、いかにも「古風」なのです。

 

逆に、「横丁」という古き良き時代を再現しようと取り組んでいる浜倉さんはというと、カラフルなシャツにジーパンという出で立ちで、70年代のフォークソングを彷彿とさせる、およそサラリーマンではないスタイルで、よく確認できませんでしたがスマートフォンを片手にビジネスを進めていたように思います。そして、三光マーケティングフーズが「工場」を訪れたのとは対照的に、彼が仕入れ交渉として訪れた先は「農家」でした。また、おそらく基本的には個人で活動されているのだろうと思いますが、樹木状の組織ではなく、リゾーム的な個人間ネットワークのなかでビジネスをしている、そんな「新しい」働き方という印象を受けました。

 

外食は、長いスパンで見たときに「社会におけるコミュニケーションの在り方」の基礎を形づくります。もちろん外食産業がコミュニケーションの在り方を決定するというわけではなくて、消費者と外食企業との間で相補的に作り上げられていく、ということです。

 

環境の変化によって変革を迫られている個人経営型飲食店の試みは、おそらくはその多くが失敗に終わるのだと思いますが、その中のほんの一握りの危機感をもった改革が、飲食店という括りを超えた普遍性をもつことがあるのではないかと思います。

 

以上。

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